礼拝日誌:三位一体後第6主日 | さいちゃんの教会音楽な日々

礼拝日誌:三位一体後第6主日

 ホイマーデン教会でオルガン奏楽。説教は前任のW牧師で、牧師夫人も久々に顔を見せた。長いこと一緒に礼拝をしていた私にとっても懐かしい顔ぶれである。
 礼拝自体はごく普通に行われる…はずだったのだが、行ってみたら金管アンサンブルの連中が集結しているではないか。金管アンサンブルの連中って、昨日何かのお祝いで集会所を借りて、夜中まで騒いでなかったっけ?(笑)

 金管アンサンブルの指揮者曰く、

 「いやー、昨日の夜中の2時半に、やっぱりW牧師が来るなら礼拝で吹かないでどうする!って話になってさぁ…。」


 さすが、呑み助の金管はやることが違う。


 特に今の指揮者になってからなのだが、うちの金管アンサンブルの連中はえらく行き当たりばったりで物事を決める傾向にある。礼拝で吹くのは決まっているが、当日まで曲が決まっていないとかざらにあるし、この連中には計画性というものをまるで期待できないわけだが、今回はとうとう行き当たりばったりで本番吹くことにしたわけだ(爆)


 私 「あ~ら、よかったわね~、あなた達のことよく知ってる私が今日奏楽で。本当は代役が弾くはずだったのよむかっ


 これは本当で、私はこの日別の教会で合唱団の指揮をし、ホイマーデン教会では後輩のRさんがわざわざハイデルベルクから来て代役を弾いてくれるはずだったのだ。1週間半前になって合唱団の予定がキャンセルになり、私もRさんをハイデルベルクからわざわざ呼びつけるのは忍びないので、自分で弾くことにしたのである。合唱団の予定がキャンセルになっていなかったら、後輩はいきなりうちの金管連中の酔っ払い決断で大迷惑を被ることになっていたわけだあせる嫌味の一つも言っておかねばなるまい。

 まぁ、とりあえず金管登場で私の仕事は減った。そのことには素直に感謝しておこう(爆) 


 さて、三位一体の日から数えて6番目の日曜日、教会暦による礼拝のテーマは「洗礼による人生」。

前奏  金管アンサンブル:EG504によるコラール前奏曲
讃美歌 EG665(Württemberg) 1-4 Gelobt sei deine Treu
挨拶と今週の聖書の言葉 イザヤ書43章1節
詩篇交読 73篇 +Ehr sei dem Vater (ドイツ語版Gloria patri)
祈り・黙祷
金管アンサンブルによる音楽演奏:EG300のコラール
聖書朗読 ヨハネによる福音書10章14-16節と27-30節
讃美歌 EG200 1-6 Ich bin getauft auf deinen Namen
説教 マタイによる福音書28章16-20節の聖書講釈
讃美歌 EG210 1-5 Du hast mich, Herr, zu dir gerufen
とりなしの祈り
主の祈り
讃美歌 EG406, 1+2 Bei dir, Jesu, will ich bleiben
報告
讃美歌 EG576(Württemberg) Meine Hoffnung und meine Freude
祝祷
後奏 オルガン:EG576による即興演奏


♪ メモ ♪
 結局金管アンサンブルと仲良く(?)仕事を分け合って、前奏→金管&後奏→オルガン、それから讃美歌は2曲(EG200とEG406)金管が担当…と思ったら、礼拝開始直前にアンサンブルの指揮者曰く、「EG200は1-6節で長いから、3節分ぐらいオルガンで弾いてよ」 …へーい汗
 というわけで、EG200は前奏と1・5・6節を金管が吹き、間の2~4節を私が伴奏。
 後奏はどうしようか迷ったのだが、最後の讃美歌が576番になることは普段まずないので、576を使って即興。ってここのところ即興ばっかりだな…_ _;
 EG210はうちの教会では歌ったことのない讃美歌だったので、1回メロディーをわかるように弾いてから伴奏。一応ちゃんと歌えてはいた模様。

 今日の聖書箇所は弟子達がガリラヤの山(山は聖書では神との特別な出会いの場である)に登り、イエスと出会うシーンである。W牧師の説教は、聖書箇所に即してきちんと講釈したという感じだったので、本文に含まれているテーマ全部に少しずつ触れたものとなった。D牧師とはタイプが違うが、いい説教であったと思う。以下は要旨。
 - 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(18節)」:古代教会は「イエス・キリストは主(キュリオス)である」と告白し、使徒信条には「イエスは神の右に座し…」という箇所がある。イエスが神に全権を委任された存在である、というのは我々の信仰の中心である。
 しかし、イエスが天と地との全権を委任された存在であるならなぜ、この世の中には悲惨な出来事が絶えないのか。一体神はどこにいるのかと疑うことがあるし、自分にはとうていそれを理解できないが、唯一何らかの説明が出来るとするならば、人間には「悪を行う自由」が神によって与えられており、そのことが多くの「理解困難な問題」を引き起こす、ということ。その不条理な世界の中にあって、我々キリスト者は命が神によって与えられたものであると確信し、理解するのが困難な出来事にも何かしらの意味があると信じている。イエスが本来の意味での全権を持っているのならば、何者もその信仰から我々をひき離すことは出来ない。
 - 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(19節)」:宣教とは、信仰を他の人に伝えることであるが、その信仰の基本とは「イエスキリストによって、すべての創造主である神との共同体が築かれたということ」であり、その神との共同体が全ての人にとって有益であると思うから、宣教するのである。決して信仰の押し付けであったり、不安がらせるような脅しであったりしてはならず、あくまで「招待」であるべきだ。
 - 「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(19~20節)」:洗礼とは信仰によって得られるご褒美ではなく、招命であり、新しい人生の始まりである。洗礼を受けたあとで、イエスの言葉に「自分の出来る範囲で」従う、イエスの弟子としての人生が始まる。我々はあくまでも弟子なので、完全にイエスの言葉どおりには出来ないし、他人から攻撃されたり、他のクリスチャンをみてがっかりしたりするだろう。それでも、イエスの言葉に従う人生を歩もうとすることによって、人生に落ち着きがもたらされるのだ。
 - 最後に、来週から夏休みがスタートで、多くの人が飛行機に乗って休暇に行くだろうが、相次ぐ飛行機事故に不安を感じている人も多いであろう。信仰は我々にとって、事故や苦しみ、死に遭遇しないという保証には一切ならない。しかし我々には、神の守りを願うことが許されている。そのことを忘れずに、出発して欲しい。