2つの葬儀 | さいちゃんの教会音楽な日々

2つの葬儀

 偶然が重なり、今日はお葬式奏楽のハシゴをすることとなってしまった。どちらも個人的な繋がりで頼まれた仕事である。

 1つ目の葬儀はお昼の12時から、ジーレンブッフ地区にある墓地のチャペルにて。この葬儀で演奏を頼まれたヴァイオリニストの方が、私のピアノの生徒の近所に住んでいて、生徒のお母さんから私が教会オルガニストであることを伝え聞いていたようなのだ。それで、この緊急事態に私のことを思い出して連絡を下さったのである。
 連絡を頂いたのが2日前。ヘンデルのニ短調のアリアの楽譜をもらい、それを葬儀の前奏にとのことだったのだが、当日チャペルではオーケストラも練習しており、また前の葬儀との間隔が短かったせいもあって、結局合わせは全く出来なかった。
 牧師と顔をあわせてびっくり、ついこの前の日曜日にうちの教会で説教をしたジーレンブッフ教会のB牧師だった。「亡くなった方はあなたの教会の方だったんですか?」と聞く私に、「いや、本人はカトリックなんだけれど、息子さんが僕の教会で堅信礼をしたもので、僕が葬儀をすることになったんだよ。」と説明してくれた。「あなたこそ、どうして弾くことになったの?」と聞き返され、「ヴァイオリニストが私のピアノの生徒の近所の方で、頼まれたんです」と私も説明。

 ヴァイオリンとの合わせでぶっつけ本番の前奏。チャペルのオルガンは、合計5ストップしかない、一段鍵盤の小さなパイプオルガンだ。挨拶と祈りがあり、オーケストラがJ.S.バッハのコラール"Befiehl du deine Wege"を演奏。その後聖書朗読があり、讃美歌"Von Guten Mächten still und treu umgeben"を私の伴奏で歌う。
 亡くなった方は44歳の女性で、2児の母であった。上の男の子は高校生で、その学校のオーケストラが葬儀での演奏を申し出てくれたのだそうである。シングルマザーであったこの女性は、生活保護を受けたりしながらも、上の男の子を女手一つで育ててきた。数年前に今のパートナーと知り合い、女の子も生まれて4人で家庭を築き、未来は明るいかのように見えた。が、幸せな家族を襲ったのは女性の突然の死…。全く何の兆候もなく、突然心臓発作で亡くなったのだという。
 小さな墓地のチャペルは人でいっぱいで、椅子が足りなくて立ったまま参列している人たちもおり、すすり泣きがあちこちから聞こえていた。故人がどれだけ周りの人に慕われていたかがわかるような気がした。
 B牧師の説教の聖書箇所は「詩篇23篇」。「主は我が羊飼い、私には何も足りないものがありません」という有名な箇所なのだが…私はこの牧師の選択にいささか驚いた。大切な人を突然失い、喪失感に打ちひしがれている家族・友人たちに、「足りないものがない」という箇所を示すというのはどういうことなのだろうと思ったのである。だが、牧師はその私の疑問をしっかり説教の中で取り上げ、「こんな時に一体、よき羊飼いはどこにいるのだろう?と問うのは当然だ」とした上で、こうしめくくったのである。
 「詩篇23篇は、どんな時にも前向さを失わなかった故人の、終生のモットーだったのだ。どんな困難な時にも、羊飼いが自分に必要なものを補ってくれるという確信を本能的に持っていたからこそ、彼女はいつも明るく前向きでいることが出来た。その彼女の確信を、我々も自分のものとして人生を歩んでいくことが出来るのである。」と。
 オーケストラがJ.S.バッハのコラール"Gloria sei dir gesungen"を演奏、それから友人代表の方がの挨拶。そして黙祷、祈りと続いた。参列者への連絡事項があり、最後に"Geh' aus, mein Herz, und suche Freud"を歌い、後奏と共に墓地への出棺となった。

 後奏を弾き終わって、早速手早く片づけをしている墓地の職員を横目に見ながらオルガンの鍵を返し、私も遅ればせながらチャペルから墓地の方へ足を伸ばしてみた。お墓の場所は、幸いにしてすぐにわかった。地中に下ろされた棺の上に、参列者が花を投げ入れ、最後の別れの祈りをしているところだった。お墓の横にたたずむ、小さな子どもを抱いた男性と高校生ぐらいの男の子の姿が痛々しかった。
 直接の知り合いではない私はお悔やみは記帳のみにして、ヴァイオリニストと牧師に挨拶をして墓地を後にしたのだが、正直に言って悲しい思いでいっぱいだった。

 どうして、こんなことにならなくちゃいけなかったのだろう。
 どうして、まだ44歳のこの女性が、亡くならなければいけなかったのだろう。
 どうして、この子ども達は、お母さんを失わなくてはならなかったのだろうか…。

 きっと私のこの思いは、この葬儀の参列者全てに共通したものであっただろうと思うのだ。答えのないその問いを、心にずっしりと重く感じながら、次の葬儀に向かった。


 2つ目の葬儀は15時から、デーガロッホ地区にあるミヒャエル教会で行われた。この教会はデーガロッホ地域のトップの教会音楽家、S女史の持ち教会である。この教会では前に一度、金婚式を弾いたことがある(2005年8月26日の記事 参照)。さいちゃんの教会音楽な日々-Spieltisch-Michaelsk,
 13時半すぎに到着。前日に教会に電話連絡して、練習したい旨を伝えてあったので、鍵は開けておいてくれていた。早速オルガンのところに行って準備を始める。さっきに比べて、時間的に余裕があるので気が楽だが、それにしてもどのストップを使うか決めておかねばならない。
 墓地のチャペルのミニオルガンを弾いた後、突然3段鍵盤の巨大なオルガンの前に座ると、さすがにその差をものすごく感じる。会堂の音響も、墓地の小さなチャペルと、歴史ある石造りの大きな教会とでは全く違う。慣れるのに少し時間が必要だ。
 いろいろなストップを試しているうちに、1時間近くあっという間に過ぎてしまい、牧師とこの葬儀を取り仕切っているCさんとがやってきた。亡くなった方はJohanniterという、中世の騎士団の伝統を継ぐ福祉団体の会員で、それゆえこの葬儀はJohanniterバーデン・ヴュルテンベルク地域の代表であり、文化省のお役人であるCさんが手配したのだ。私はCさんとはここ2年ぐらいの知り合いで(知り合いになった経緯は長くなるので割愛…^^;)、Cさんから直接お電話を頂いて、私が今日の奏楽をやらせていただくことになったのである。
 この葬儀はデーガロッホ地区の牧師であるM牧師が典礼を担当、Johanniterの会員である引退牧師、S牧師が説教を担当するという形で行われた。墓地のチャペルで行われる葬儀よりも、はるかに普段の礼拝に近い典礼になっている。打ち合わせをしてみたら、1つだけ事前に聞いていたのと違うところがあった。礼拝の中で3人の方が挨拶をするのだが、その合間合間に1曲ずつ、何か静かな曲を入れて欲しいというのだ。(事前に聞いていたのは、3人の挨拶が終わった後1曲だけ何か演奏。)「……即興してもいいですか?」と牧師に聞いたら、「即興、いいねぇ~」という即答だったもので、予定外の即興演奏決定になってしまった。

 前奏にメンデルスゾーンの「アンダンテニ長調」を、短くして演奏。挨拶があり、詩篇交読は奇遇にも詩篇23篇。そして、祈りの後、聖書朗読はヨハネ福音書10章12-16節の「私はよい羊飼いである」の箇所である。
 讃美歌66番"Jesus ist kommen"の1,2,4節を歌い、そして説教。テーマはもちろん前の葬儀と同じなのだが、説教のニュアンスはだいぶ違っていた。亡くなった女性は戦前生まれで、87歳だった。2つの戦争、そして戦後の大変な時期を乗り越え、Johanniterや乗馬協会の会員として活発に活動し、長寿を全うした故人をずっと導いた「よき羊飼い」。S牧師も、我々の世界は「足りないもの」に目を留めればキリがないことを認めながらも、しかし「与えられているもの」に視点をずらせば、必要なものは十分与えられているのだと強調していた。
 説教の後に讃美歌66番5節を歌い、それから故人との交流があった3人の挨拶。急に「そうだ、今日歌わないけれどみんな知っている、お葬式の讃美歌のメロディーを使って即興しよう」と思いついたものの、1人目の挨拶があまりにも短くて、讃美歌集を開くのが間に合わず、1曲目は自分でその場で作ったメロディーを展開させる形で即興することになってしまった。2曲目・3曲目は讃美歌のメロディーを使用。一応、それなりにまとまったとは思う。
 とりなしの祈りと主の祈りがあって、最後の讃美歌は331番"Großer Gott, wir loben dich"の1節と11節。そして祝祷・アーメン唱と続き、後奏にはメンデルスゾーンの6番ソナタの終楽章を弾いた。
 この葬儀は1つめの葬儀とは違い、時間があって入念に準備されたものだったので、全体的に落ち着いた葬儀になったと思う。


 2つ目のお葬式を終えてもなお、私の心の中では1つ目のお葬式の時の思いがずっしりと重かった。ただ、1つだけはっきり感じたことは、「これこそが私達教会音楽家の仕事なのだ」ということである。
 人生の様々な局面で、音楽をもって人々と共に歩むこと。喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と悲しみを共にすること。やりきれない思いや割り切れない不条理さ…それを共に分かち合いながら、音楽をもって人々の側にいること。それを黙々と行うことが我々の仕事であり、それ以上でもそれ以下でもあってはならないのだ。
 コンサート活動をする演奏家などとは全く違う、地味な仕事…。時には全く日の当たらない仕事ですらある。でも、人間の存在をありのまま見つめ、その側にいることの出来る仕事であることは間違いない。

 そして、それと関連して、「キリスト教の信仰とは何なのか」ということも考えさせられた。
 詩篇23篇の言葉を語る時、「救われた者」の立場から「上から目線の語り方」、つまりまるで自分がもう天国にいて下界の人間を引っ張り上げようとするような語り方も出来る。だが、今日の2人の牧師の説教と、そこに共通する「信仰」を考えると、やはりそうであってはならないのだと強く感じた。
 我々はキリスト者であろうとなかろうと、あくまでも苦しみ・悲しみ・不条理のあふれかえる世界に住む「下界の人間」なのだ。周りの人たちと共に悲しみ・苦しみを分かち合いながら、静かに羊飼いの導きを待ち望み、目を上げる…。その「下から上に向かう目線」こそが、周りの人々に希望を与える「信仰」なのだと思う。
 全く異なる人生を送った2人の女性の葬儀を通して、そんなことに思いをめぐらせた1日だった。