久しぶりにショパン | さいちゃんの教会音楽な日々

久しぶりにショパン

 ホイマーデン教会の年間行事の中で、私が「ピアニスト出演」をする数少ない行事の1つが、毎年2~3月に行われる「バラードの夕べ」
 「バラード」とは、「主に人間の遭遇する運命的な出来事を物語った詩」である。時にはユーモアたっぷりに、時にはちくりと皮肉をこめて、人間の生き様や死を描いたバラードをドイツの学校では教わり、暗誦もするらしい。そういった懐かしの詩から、有名ではないけれど興味深い詩まで、毎年教会員の有志何人かが持ち寄って選び、その詩の朗読の合間にピアノソロや、歌曲も入れて1つのプログラムにまとめたのが「バラードの夕べ」である。私がこの教会で働き始めてから出来た行事だが、今回で7回目…と聞いて時間のたつのは速いなぁ^^; と思った次第。

Ballade08
 さて、毎年選曲にとても悩む私なのであるが、今回はショパンの曲を2曲選んでみた。1曲目は「ワルツイ短調」(作品34-2)、2曲目は有名どころで「雨だれの前奏曲」である。
 ワルツイ短調は、ショパンのワルツの中でも地味な作品なのだが、とても深い悲しみがこめられている。成就しなかった恋を語った作品だと言われており、ショパンはこの曲が生涯お気に入りだったという。この作品を、恐れ多くも私は小学校3年生の時に弾いた。……当然、小学校3年生に成就しなかった恋の悲しみがわかるわけはないのであって、弾いたことは弾いたのだが、音楽的な深みは何一つ表現できていなかった。「バラードの夕べ」のための選曲にあたってふとこの曲を思い出したのは、私自身が成就しない恋を諦めなくてはいけない運命にあるせいかも…なーんてね(ぉぃ^^;)
 小学校3年生の時の演奏のリベンジ(!?)をはかって、このワルツイ短調に再トライしたわけだが…いやはや、難しいのなんのって。ゆっくりと悲しみを語り始め、やがて美しい思い出や、楽しかった記憶も語られるののだが…その「希望」が全て打ち砕かれ、取り返しのつかない現実の前に、大きな痛みを持って曲が終わる…という、そんな流れなのだ。
 ショパンの書いた悲しみの音は幾度となく私自身の心も突き刺したから、練習している時に何度泣いたかしれない。そうやって、書かれた音を頭でだけではなく、心で理解しようとする作業は、私にとって不可欠な「音楽的作業」だ。そうやって理解したものを、どのように聴衆に伝えるか考えていく。例えば、同じメロディーが2回出てきたときには、1回目と2回目の違いをどう出せばよりよく言いたいことが伝わるか。音の大きさは?テンポは?音色は?等…数限りなくある表現の可能性から、もっともよいと思われるものを選び取って練習していく。
 「雨だれの前奏曲」の方が、音楽的には「ワルツイ短調」より感じが掴みやすかったのだが、どっちにしてもこの2曲は指を速く動かすという意味でのテクニックは必要ないものの、音色による表現力が必要とされる曲である。もう1人ピアノを弾く出演者がいて、そちらがロシア系の大胆にピアノを叩きまくる演奏なので、かなり意図的にこういう選曲にしたのだが…音色の繊細さを売りにするのも疲れるよ~^^;

 というわけで、1週間ほどかなり集中してピアノを練習し、本番に臨んだわけだが…おかげさまで非常に好評だった。「ワルツイ短調」はプログラムの冒頭で弾いたので、私自身も緊張していてぎこちなくなり、表現の幅が狭まった感があったが、プログラム第一部の終わりに弾いた「雨だれ」の方はリラックスして弾けた。(これはもちろん、「雨だれ」の方が弾き慣れたレパートリーだというせいもあるのだけれど。)
 バラード朗読の方も、私には1回聴いただけではイマイチ意味の取れない難解なものもあった(とくに方言の詩は難しい!!)が、印象に残った詩もたくさんあった。例えば不慮の事故で亡くなってしまったお母さんが、天国の扉の前で「どうして私は死んでいるのだろう、もうすぐ息子が帰ってきて嘆くだろうに…」と家族ややり残した家事のことを心配する詩。「もし死んでいなかったら、もうすぐ夕食なのに…!」という最後の一言が、笑いと同時に哀れさを誘う詩であった。他に、息子の心臓病を治すために母と息子が無理をして聖母マリアゆかりの地へ巡礼に行ったものの、その晩宿に聖母が現れて息子を連れて行ってしまうという悲しい詩から、メルヘンの「カエルの王子様」をもじった詩、しまいに狼と同じ穴に落っこちるハメになっても一個の卵を死守したおばさんの詩(これはかなり笑えた^^;)まで、変化に富んだいいプログラムだったと思う。

 「雨だれ」はちょっとした本番でまた弾く機会があると思うが、「ワルツイ短調」にもぜひいつかまた挑戦してみたい。今度の時はもうちょっと、取り返しのつかない悲しみの恋を冷静に見られるだけの落ち着きが私に備わっているかもしれないし…ね(笑)